おおぶりな健全さと.なにもかも心得た懐の深さは大切だが‥‥ = 2-2 = 第 338号

 25年の歳月をかけた『徳川慶喜公伝』全八巻が

世に出ようとしていた1917年、栄一は折からの

夏休みで仙台から東京に戻っていた孫の敬三

を、湯河原の天野屋旅館に呼んだ。

 静養かたがた天野屋で『徳川慶喜公伝』の序文

を書いていた栄一は、その原稿を敬三に渡し、

声をあげて読んでほしいと頼んだ。

 栄一はその序文で、自分がどうして慶喜公の

知遇を得るに至ったか、なぜこのような伝記

の編纂を思い立ち、どういう経緯で今日に

至ったかをありのままに心をこめて書いていた。

 敬三は栄一にいわれるままにその

序文を読み始めた。

 はじめは退屈に思えたが、やがてその序文に

こもる栄一という人物の気迫と、幕末から

維新の激動の歴史とともに歩んできた

その人生のスケールの大きさが、

若い敬三の心にぐいぐいと迫り、魂をゆさぶった。

 そこには日本の国の生きた歴史が躍動し、

日本人の心が渦巻いていた。

 そして行間には、七十歳を越えてなお火のように

燃える栄一の、国を思い、世を思い、主君を思い

やる、正直で真摯な熱情がみなぎっていた。

 敬三はついに圧倒され、突然、嗚咽とともに

泣き伏してしまった。

 これ以後、栄一の敬三を見る目が変わった。

 廃嫡となった長男篤二にかわり、孫の敬三

を渋沢家の当主として育てあげるという

意志が、栄一のなかで本当に固まった

のはこのときだった。

 栄一が開設に尽力した学校の一つに、1875年

創立の商法講習所(一橋大学)がある。

 この学校で大きな学生騒動が起きたとき、

栄一が出かけていったことがある。

 殺気だった学生を前に、栄一はいつもの

温顔のまま口を開いた。

 「さて、おのおのがた・・・」いきなり

大時代がかったサムライ言葉を聞いて、

血気にはやる学生たちもさすがに

静まり返った。

 そして栄一の武士的信念にうたれて、最後は

すっかり兜をぬがされてしまった。

 栄一の言葉が学生に限らず類稀なる説得力を

もったのは、幕末維新をくぐり抜けてきた男

しか発しえない「気魂」が、そこに

こもっていたためだろう。

 敬三が栄一の看病と葬式の心労と多忙など

から急性の糖尿病にかかり、その療養の

ため、昭和7年の春を伊豆の三津浜で過ごした。

 療養中、敬三は滞在していた浜に隣りあった

「内浦」という集落の古老から、思いも

かけない貴重な古文書をみせられた。

 この地方屈指の旧家である大川家秘蔵の

古文書だった。

 そこには、同家に伝わる戦国時代から明治に

いたる二千数百点もの民俗資料が収録され、

これまで一度も発見されたことのない

一つの村の400年にわたる歴史と、

海に暮らす人々の生活が克明に

記されていた。

 驚喜した敬三は、一部ずつ風呂敷につつんで宿に

持ち帰り、貪り読んでは一心不乱に筆写した。

 それからの敬三は、銀行業務をそこそこに

こなしながら、ほとんどこの作業に没頭した。

 資料発見から最終巻の刊行にいたるまで

約7年という膨大な作業だった。

 敬三と仲間たちの手によってまとめられた

この総計3,000ページにもおよぶ『豆州

内浦漁民資料』の大著によって、民俗

学者渋沢敬三の名は不動のものとなった。

 渋沢家三代の歴史をそれぞれ一言でいい表せば、

家父長制、放蕩、そして学問への没頭という

言葉に集約することができるだろう。

 渋沢家三代の女たちにとって、それはそのまま

隠忍自重の歴史となった。

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  今回も最後までお読みくださり、ありがとう

             ございました。 感謝!

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