人生のありとあらゆる事象から幸せの根拠を見つけ生き抜き.行き去る 第 309 号

 戦前は朝日新聞を代表する記者として活躍、その後

政界に転じ、小磯内閣で内閣情報局総裁を務め、戦後

は保守合同を主導したことで知られる緒方竹虎。

 2005年に機密解除となった米公文書から、1955年の

自民党結成にあたり、CIAが緒方を通じて対日政治工作

を行っていた実態が明らかになった。

 コードネーム=POCAPON。

 彼はアメリカのエージェントだったのか。

 緒方竹虎は、明治末期に新聞記者となったことを

手始めに、昭和戦前期においては朝日新聞で主筆

を務め、戦時は情報局総裁、戦後は大臣、副

総理、自由党総裁を歴任したジャーナ

リスト、政治家である。

 英国滞在中、緒方は漢籍と語学に専念した。

 漢籍の勉強は、西村天囚の助言に刺激された

もので、後年、随所に漢学の素養が示される

のは、このときに養われたものといわれる。

 二・二六事件における武勇伝。

 1936年、青年将校約20名に率いられた1,400名

の下士官・兵は、首相官邸、警視庁、公的機関、

東京朝日新聞社を襲撃した。

いわゆる二・二六事件である。

 当時、主筆の緒方は反乱軍の指揮官と一人で対応

し、いささかの動揺も示さなかったとされる。

 玄関に降りると拳銃をもった将校が両足を

踏ん張って突っ立っていた。

 緒方が「私が代表者です」と名刺を出すと相手

は姓名も名乗らず沈黙のまま向き合っていた

が、ふと目をそらした。

 緒方の「威あって猛からず」の穏やかながら

堂々とした態度に、一瞬気圧された様子だった。

 1944年、緒方は国務大臣兼情報局総裁として

小磯内閣に入閣した。

 従来から親交のあった小磯国昭、米内光政から

の強い要請によるもので、もともと海軍は陸軍

の拡大政策に対して批判的であったこと

などから了解した入閣であった。

 緒方は戦時の活動から、公開情報と非公開情報・

諜報の両面を掌握しようとしたとされる。

 戦時の反省から、緒方は戦後、内閣直属の調査

機関・内閣調査室の設立に尽力する。

 緒方やのちに初代内閣情報室長となる村井順が、

50年代、情報機関の必要性を主張する以前から、

すでに占領期日本には、情報機関が存在した。

 これらの機関は単一の統一的な組織ではなく、

旧軍の流れを汲む特務機関が、きわめて

ゆるい連携のもとで、戦後も密かに

活動を続けていたものであった。

 旧軍人関係者による情報組織づくりで、カギと

なる人物であったのは土居明夫であった。

 土居は最大時数千人の人数を抱えた関東軍

情報部の部長であった。

 そして戦前駐ソ連大使館付武官、そののち

大本営参謀本部ロシア課長を務めたこと

から、対ソ連インテリジェンスの

エキスパートであった。

 土居は終戦後、辰巳栄一の頼みで、中国国民党

政府国防部第二庁第三課に入り、対ソ連

インテリジェンスを担当した。

 その後、帰国し、緒方と「日本のインテリ

ジェンス機関」の連絡役となる。 

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