人間は閑職にある時こそ何かと得られるところが多い = 2-1 = 第1,142号

 外交をライフワークとする

政治家・大平正芳。

 対米関係とアジア外交との均衡を重ん

じ、現在にも通じる対外構想を描い

た大平の理念と外交はどのよ

うなものだったのか。

 その実像をたどることで、戦後

日本政治を問い直す。

 外交は国家の命運を左右する。

 資源なき島国の日本とすれば、

なおさらのことである。

 外交をライフワークとする政治家を

外政家と呼ぶなら、大平正芳は

その筆頭格といってよい。

 第68・69代内閣総理大臣の大平は、

香川県三豊郡和田村の農村に

三男として生まれた。

 苦学して大蔵省に入省し、

やがて衆議院議員に転じた。

 池田勇人内閣で宣房長官、外相となった

大平は、通産相、宏池会会長を経て、

盟友の田中角栄が率いる内閣

で二度目の外相を務めた。

 蔵相、自民党幹事長を歴任して首相に

就任すると、大平は環太平洋連帯構想

を描き、アジア太平洋の秩序を模索した。

 父を失い、進学をあきらめかけていた

ところ、高松市近郊に住んでいた

叔母が手を差し伸べてくれた。

 大平は1928年4月、高松

高等商業学校に入学した。

 東京商科大学から大蔵省へ1932年3月、

高松高商を卒業した大平は、翌年4月

に東京商科大学に入学した。

 現在の一橋大学経済学部である。

 23歳になっていた。

 大平は国分寺に下宿し、大学の講義は

もとより、来るべき高等文官試験

に向けて猛勉強した。

 仙台にいた大平は1939年5月、大蔵次官

の大野龍太に上京を求められた。

 大野は割烹店に大平を連れ出すと、

興亜院に出向し、中国河北省北西

の張家口に赴任するよう説得した。

 興亜院とは日中戦争下における占領地

政策を扱う中央機関であり、北平、

上海、張家口、厦門に連絡部

が置かれていた。

 大平は、興亜院の3年間で各省に

人脈を築き、中国通となった。

 50歳で初入閣。

 岸首相は1960年6月に退陣を表明した。

 池田が総裁の有力候補になると、大平は

総裁選について田中角栄に相談した。

 田中は選挙運動の進め方をメモして

大平に渡した。「重要なところは

わざわざ赤インクでしたため

てあった」という。

 首相としての池田について、大平は、

「池田さんという人はもともと

非凡な英才ではなかった。

 機略縦横の政略家でもなかった。

 いわば愛嬌に乏しい無骨

な人であった。

 しかしよく勉強する人でもあった。

 また善かれ悪しかれ自分の信念で

真直ぐにぶつかってゆく人で

あった」と感じていた。

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今回も最後までお読みくださり、

             ありがとうございました。感謝!

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