今も、そのまま存在しているという厳然たる事実だけである = 2-2 = 第 330 号

 1949年、台湾に深い思い入れのある

明石元長は、根本博を台湾に密航させる

ため、資金調達に走りまわる。

 GHQ支配下だった日本では、それは

まさに国禁をおかす危険な

活動であった。

 元長の筆舌に尽くしがたい資金集め

活動により、なんとか根本の密

航出発に成功する。

 その4日後、台湾を助けるために奔走

した明石元長は精根使いきり、

急死した。42歳だった。

 元長を看取った高校生にすぎない元長

の長男・元紹が、父がやろうとした

ことの「真の意味」を知るには、

それから60年という気の遠く

なるような年月が必要だった。

 60年後、台湾の金門島に招かれた明石

元紹は、父が犬死ではなかったを知った。

 昭和20年8月15日、陛下自らの「終戦

の詔勅」が発せられた。

 放送を聴きおえた駐蒙軍司令官・根本博は、

指揮下の全軍に対して、司令官としての

絶対命令を下した。

「全軍は別命があるまで、依然

その任務を続行すべし。

 もし命令によらず勝手に任務を放棄したり、

守備地を離れたり、あるいは武装解除の

要求を承諾したものは、軍律によって

厳重に処断する」

 目を見開いた根本の口から発せられた

その迫力に、居並ぶ幕僚たちは

圧倒された。

 それは有無をいわせぬ絶対命令

だったのである。

 上層部から武装解除命令が出ているのに、

駐蒙軍は司令官の根本の命令によって、

それを拒否するというのだ。

 根本は、特にソ連軍主力と激突する「丸一

陣地」の守備隊に対して、こう厳命した。

 「理由の如何を問わず、陣地に侵入する

ソ連軍を断乎撃滅すべし。

 これに対する責任は、司令官たるこの

根本が一切を負う」これまた根本

自らの覚悟の命令だった。

 根本はソ連相手に絶対に武装解除しない

ことを決意していた。

 彼は、日本陸軍にあってソ連の本質を

見抜いていた数少ない軍人だった。

 中佐時代の昭和5年、根本は陸軍参謀

本部第二部(情報担当)の支那班

の班長になっている。

 このとき、ロシア班の班長が、根本と

陸軍士官学校で同期の橋本

欣五郎中佐である。

 当時、両課の課長が同室で仲がよく、

かつ両班の班長が同期であり、班員

同士が密接に往来し、お互いの

班長を「ねもさん」「橋欣」

と呼び合うほど、日常的

に情報交換を行っていた。

 それぞれが得た情報と分析は、同期の両班長に

よって「共有」され、そのため、根本は専門の

支那情報だけでなく、ロシア情報にも通じ、

ソ連軍の本質や危険性を知悉していたのである。

 終戦時の日本同胞に対する蒋介石の恩義。

 それは、北支那方面軍司令官として、内地

への引き揚げを一手に引き受けた自分が

一番知っている。

 敗戦に際し、自決を決意していた自分が今、

生きているのは、あのとき、内蒙古にいた

4万人の在留邦人と35万人の北支那方面

軍の部下を内地に送還してくれた、

寛大な蒋介石の方針によるもの

であったことは確かだった。

 国民政府の要人と折衝を繰り返しながら、

わずか一年という短期間のうちに、日本

への帰還を完遂できたことは、

奇跡というほかない。

 それは多くの日本人をシベリアに連れ

去ったソ連の独裁者・スターリンと

あまりに違っていた。

 1949年、根本は台湾に渡り、国府軍の

顧問となり、作戦のアドバイスをした。

 根本らの意志を確認した以上、蒋介石は、

その力をどうしても貸してもらいたかった。

 長かった日中戦争で、蒋介石は日本軍の

実力はいやというほど思い知らされている。

 なにより日本軍の規律と闘志は、国府軍

をはるかに凌駕していた。

 そして陸士、陸大を出た日本陸軍のエリート

たちが立案する作戦に苦汁を嘗めつづけた

経験は、蒋介石にとって忘れようとして

も忘れられるものではなかった。

 根本は前線のアモイ島と金門島を視察した。

 そこで、アモイは捨てて、守りやすい金門島

への守備を集中強化し、ここを決戦場

すべき、と進言し採用された。

「金門島は自活できる。大陸との通行をたとえ

遮断されても、ここを拠点にすれば長期間、

戦い抜ける」

 根本は案内人からの金門島の農業事情などを

つぶさに聞いて、そう判断した。

 大陸から孤立しても軍隊用の食糧を台湾から

補給しさえすれば、長期の踏ん張りが十分、

期待できると考えたのである。

 根本は、陸士・陸大を優秀な成績で卒業した

単なる「軍官僚」ではない。

 諜報や情勢分析にも長けた「戦略家」

でもあった。

 金門島における戦いで、国府軍は大勝利した。

 共産党軍は主力を失い、その進軍が止まった。

 根本の存在は、国府軍にとって

極秘中の極秘だった。

 しかし、その功績を最も評価し、わかっていた

人物がいる。 蒋介石その人、である。

 根本の長女は、父の思いを聞いている。

 「蒋介石総統は両手で父の手を握って

『ありがとう』と言ってくれたそうです。

 父はそのためだけに行ったのです。

 それで十分だった、と父は言って

おりました」

 1952年、羽田空港から、その男が姿を現した。

 灰色のパナマ帽、白い麻の上着、よれよれの

ネクタイ、その初老の男は、肩に

釣竿をかついでいる。

 男は、まだタラップを降りきらないところから

質問を浴びせる記者たちに不快感も見せない。

 柔和な笑顔を浮かべてゲートの方に向かおうと

する男は、たちまち報道陣に取り囲まれた。

 根本博、61歳その人である。

 「長い期間になってしまったが、あくまで

私は釣りをしてきたんだ」根本はそう

言いたかったに違いない。

 なんとも人を食った、いやユーモアに満ちた

行動である。

 根本の心の奥底は誰にも分からない。

 台湾と台湾海峡を守るために海を越えて

やってきた日本人。

 確かなのは、あの時、根本とそれを支えた

人々が守ろうとした「台湾」と「台湾海峡」

が、60年という歳月を経た21世紀の今も、

そのまま存在しているという厳然たる

事実だけである。

  門田隆将

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  今回も最後までお読みくださり、ありがとう

             ございました。 感謝!

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