宮崎は十河の懐の広さを尊敬し.十河は仕事の出来る男として宮崎を愛した – 2-1 – 第 389号

 満鉄きってのソ連通で、満州国の計画経済の

立案を主導、さらに日本の戦時統制経済の

設計図を描いた影の立役者宮崎正義。

 その生涯を通して、官僚主導の「日本株式

会社」の特質と問題点を、原点から問い直す。

 満鉄に入社した宮崎正義は調査課に在籍、

ロシア・ウォッチャーとして活躍。

 やがて国家統制経済のプランづくりに

奔走する。

 「1940年体制」の骨格を成す「総力戦

体制」は、日本に先行していち早く

「満州国」で実現された。

 なぜ、かように日本に先行して「満州国」

で総力戦体制が作られたのかといえば、

それはこの地が対ソ戦の最前線

基地であったからである。

 したがって日本の総力戦体制は、ソビエト

での5ヵ年計画を模してそれを凌駕・

改良するかたちで作られた。

 こうした長い生命力をもつ「体制」の

立案者はいったい誰だったかのか。

 これを調べていくと、ある人物に行き

当たる。

 その名は宮崎正義。

 表の顔は満鉄調査課の調査員。

 しかし裏の顔は日本国家改造計画の

グランドデザイナー。

 戦後50年の繁栄をもたらし、そして

いま海外からその閉鎖性を指摘され

非難される日本の官僚資本主義は、

その歴史的起源をたどれば

1930年代の「満州国」にあった。

 満鉄が「満州国」だけでなく日本で最大の

国策会社とはいえ、所詮はそこの一介の

調査課職員にすぎないということで、

多くの人々は宮崎の活動に注意を払わない。

 彼の青年時代の体験はロシア革命から

はじまる。

 彼は日本人としては数少ないロシア革命の

体験者なのである。

 ロシアのペテルベルグにあって彼は、銃弾の

なかで青年期のひとときを過ごした。

 国体が変わるという強烈な体験をひっさげて

満鉄に入社。

 その後は一貫してソビエトの計画経済を

調査し研究してきた。

 そして満州事変後は「満州国」の建国に

立ちあい、そのグランドデザインを

彼が担当したのである。

 そのポイントは統制経済を実施する

ことだった。

 それもソビエトで実施しているような市場経済

を否定した全面的統制ではなく、市場経済に

立脚しつつも官僚主導の部分的統制を

織り込んだ日本独自の経済統制

システムの提言であり実施であった。

 1932年、満鉄理事だった十河信二は、同じ

満鉄の調査部員だった宮崎にかつがれて経済

調査会を組織して国家改造プランを作り、

それを国策にするために勇往邁進した経験を持つ。

 黒衣の宮崎正義。

 満鉄出身の伊藤武雄は、宮崎について、

「企画力」に富んだ「世に隠れたる大人」

と表現している。

  小林英夫 (著)

『宮崎正義の生涯:「日本株式会社」を創った男』

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 今回も最後までお読みくださり、ありがとう

             ございました。 感謝!

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