志士と商人の「持ちつ持たれつ」の関係 = 2-2 = 第1,712号

 彼がほかの志士たちと違って、経済感覚に

優れていたのは、その生い立ちが大きく

関係している。彼には、商人の血が

半分入っているのである。

 近代に入ってから坂本家は、商人になってい

た。高知城下に出て「才谷屋」という質屋を

はじめ、のちに造り酒屋も開く。当時の、

造り酒屋というのは、豪商と同義語だ。

 酒造りというのは、酒蔵などの大規模な設備

が必要であり、しかも大量の米を使う事業

である。資金力がなければ、絶対に

できない商売だった。

 もちろん、才谷屋も間違いなく豪商だった。

数棟の酒蔵を持ち使用人が十数人もいる、

土佐でも屈指の商人だったとされて

いる。そして龍馬の4代前に、

才谷屋は分離する。

 郷士坂本家は、身分は低いとはいえ、経済力

は決して小さくなかった。なにしろ、土佐

有数の豪商の分家である。龍馬が生まれ

た当時、坂本家は、領地161石の

家禄を持っていた。

 龍馬の坂本家は、本家が商人なので、親戚

にも商人が多かった。その中でも、龍馬の

継母の婚家の川島家は、土佐藩の富裕

な御用商人だった。

 龍馬にとっては、この継母の婚家の川島家

は、親戚の中でも居心地がよかったようで、

ときどき遊びに行っていたという。龍馬

はこの川島家から多大な影響を受け

たと見られる。

 川島家は、西日本を中心として手広く廻船

業を営んでいた。龍馬が船や輸送業に強い

興味を持ったのには、間違いなく川島

家の存在があったはずだ。

 また彼は、脱藩する際、旅費を川島家の当主、

川島猪三郎から借りていたとされている。

 志士と商人の「持ちつ持たれつ」の関係。

 幕末の志士たちの活動に「侠商」といわ

れる商人たちの支えがあったという

ことは、よく知られている。

 商人たちがなぜ志士に肩入れしたかというの

は、それぞれの理由があるので、一概には

言えない。ただ大雑把に、2つの要因

があるように思われる。

 一つは、当時の西洋諸国の動向は、武士商人

問わず知識階級にとって共通の不安材料で

あり、志士たちの活動がこれらの問題

を解決するのではないか、と期待

したということ。

 もう一つは、志士たちは全国を駆け回るもの

なので、志士たちを使って各地の情報を掴み

たかったということである。商人にとっ

て各地の情報は仕事上、不可欠なも

のだった。電話などの通信手段

がなかった当時、志士たち

の情報網は、商業上とても

メリットがあるものだったのだ。

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 今回も最後までお読みくださり、

    ありがとうございました。感謝!

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