恋をしたことがない人間が恋を歌っても.きっと届かない 第1,062号

 才能勝負の難関入試を突破した天才

たちは、やはり只者ではなかった。

 口笛で合格した世界チャンプがいるかと

思えば、ブラジャーを仮面に、ハート

のニップレス姿で究極の美を追究

する者あり。

 お隣の上野動物園からペンギンを釣り上

げたという伝説の猛者は実在するのか?

 「芸術家の卵」たちの楽園に

潜入した前人未到の探検記。

 僕の妻は藝大生である。

 一方の僕は作家で、よくホラー小説や

エンタメ小説を書いている。

 今、僕が原稿を書いている横で、妻は

ノミに木槌を振り下ろしている。

 皆さんは東京藝術大学、通称

「藝大」をご存じだろうか。

 なぜ、僕が藝大について調べ始めたのか。

 それは現役藝大生である

妻がきっかけだった。

 とにかく妻が、面白いのだ。

 音楽と美術の両方を擁しているのが

藝大の特徴の一つでもある。

 藝大に合格するにはトップレベルの実力

が必要で、それを身につけるには、トッ

プレベルの指導者に習う必要がある。

 そのトップレベルの指導者は藝大

の教授であることが多い。

 藝大のレベルは総じて高い。

 音校なら演奏技術、美校ならデッサン力。

 そういった、いわば基礎の部分に

まずは高い能力が求められる。

 藝大が求めているのは、それを踏まえた

上での何か、才能としか表現でき

ない何かを持った学生だ。

 「光るものを持っている」と審査する

教授に思わせることができない

といけない。

 芸術の時間。

 「旅行に行ったとき、大変だったの

よねー」わたしの妻のお母さんが、

腕組みしながら苦笑した。

 「ルーブル美術館でね。本当に、全然動

かなくなっちゃって」妻の母、妻、

妻の妹、妻の従姉妹。

 4人で海外旅行に行き、ルーブル

美術館に入った。

 その一角で、妻は全く動かなく

なってしまったという。

 「踊り場にある、あの彫刻。

 『サモトラケのニケ』

あれをずっと見てて。

 1時間くらい見てたかな、まだ見る?

って聞いたら、見るって言うわけ。

 じゃあもう、好きなだけ見なさいって」

 なんと、妻はえんえん5時間以上も

「サモトラケのニケ」だけを

見つめ続けたという。

 ただ一心不乱に。

 人が芸術に触れる時、時間の流れは

少し普段と変わってしまうようだ。

 声楽科。学生が口をそろえて「藝大で

一番チャラい」という学科である。

 声楽科には、声楽実習という授業がある。

 これはオペラの稽古だ。

 オペラはたいてい男女の恋愛の物語だ。

 その練習なので、体が触れ

合うことも多い。

 声楽科の学生は、一日2時間

くらいの練習が限度だ。

 それ以上は喉を痛めてしまう。

 残りの時間は、遊びに使ったり、

体を鍛えている。

ジムに行ったり。

 体幹を鍛えないといい音が出ない。

 肉体は大事だ。

 声楽科はチャラいといっても、

一本芯の通ったチャラさだった。

 恋愛も存分に味わってこそ、

人生を楽しめる。

 いい歌が歌える。恋をしたことがない

人間が恋を歌っても、きっと届かない。

 彼らはそれを、本能で知って

いるのかもしれない。

 立花さんの「美しいものを作る人が美

しくなかったら、説得力がない」

という言葉が思い浮かぶ。

 「何年かに一人、天才が出ればいい。

 他の人はその天才の礎。ここは

そういう大学なんです」

 入学時、柳沢さんは学長に

そう言われたという。

 美校と音校の敷地が繋がっているよ

うに、美術と音楽は繋がっている。

 藝大は個々の力も魅力的だが、その中で

起きている化学反応も、とても魅力的だ。

 二宮敦人『最後の秘境、東京藝大:

       天才たちのカオスな日常』

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今回も最後までお読みくださり、

    ありがとうございました。感謝

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