潔く身を捨てれば一種の美学が生まれ多くの後輩が後を慕っていく 第1,305号

幕末維新で大きな役割を果たした
水戸藩士・藤田東湖。

その人物像について、童門先生が
一歩踏み込んで考察しています。

また、その人間的魅力に引き寄せられるように、
西郷隆盛や橋本左内も集ってくるのです。

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 童門 冬二(作家)
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私は正直にいって、藤田東湖が
幕末維新に果たした役割を考えると、
聖書の中にある例の、

「一粒の麦地に落ちて死なずば」

という言葉を思い出す。正確には、

「一粒の麦、地に落ちて死なずば、
 ただひとつに在らん、もし死なば、
 多くの実を結ぶべし」

という文章だ。

一粒の麦も死なないで自己を守っていれば、
結局は一粒で終わってしまう。
しかしもし死ねば、それがきっかけとなって
多くの実を結ぶだろうという、
人間にもそのまま当てはまる言葉である。

これは指導者のあり方として、
いつもいえることではなかろうか。
指導者が自己にこだわって、
「おれが、おれが」と、自分の業績を誇り、
権力にしがみついていたら、後から続く
世代は信用しないし、敬愛もしない。

が、潔く身を捨てれば、一種の美学が生まれ、
多くの後輩が後を慕っていく。これはすなわち、

「公の精神」

であるからだ。ポストや自分に
しがみつくというのは、最後まで、

「私の精神」

を捨て切れないということである。

もうひとつ藤田東湖のカリスマ性を支えていたのは、
何といってもかれの、「詩精神」だ。

したがってかれは、尊皇壌夷論を唱える
志士であることは確かだったが、
同時に“詩士”であり、また“死士”でもあった。

西郷隆盛が初めて藤田東湖に会ったのは、
安政元年(1854)のことだといわれる。

東湖は49歳、西郷は28歳だった。
東湖は骨太で、背が低い。
顔は浅黒く、眉が太い。しかし目付きが鋭い。
初めて東湖の姿を見た西郷は、薩摩藩の屋敷に戻ると、

「どうだった?」

ときく友人に、

「まるで山賊の親分だ」

と答えた。このときの西郷は、やや自信過剰で、
たまたま東湖の家に来ていた橋本左内を見ると、
あまりにもやさしい美少女のような
姿をしているので、ちょっと馬鹿にした。

橋本左内は左内の方で、西郷を、

「すぐ感動する感激オンチだ」

と見だ。が、つき合っているうちに
二人は無二の親友となった。
そしてそれぞれの主人のために、
のちに井伊直弼がおこなう安政の
大獄の原因をつくっていく。

 『致知』1995年3月号

     連載「新代表的日本人」P130

  今回も最後までお読みくださり、

         ありがとうございました。感謝!

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