私のおせっかいの原点となったこと 第 1,806 号

企業の商品の広報や、元サッカー日本代表の
中田英寿選手、陸上の為末 大選手などの
スポーツマネジメントを手掛け、2012年には
電通PRを抜き業界売り上げ一位になるまで
急成長したPR会社・サニーサイドアップ。

その創業者である高橋 恵さんは、自らの半生
を「無我夢中でおせっかいをばら撒いてきた」
と表現します。

70代に入って「おせっかい協会」を立ち上げ、
コロナ禍の現在も無類の〝おせっかい〟
で周囲の人々を明るく照らし続ける高橋さん
の原点を振り返っていただきました。

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(高橋)
私のおせっかいの原点には、子供時代の辛い
経験がありました。

「何で戦死してしまったの。手がなくても足が
なくても、生きて帰ってきてほしかった!」

そう泣き叫ぶ母のそばで、10歳の私は、姉と
妹とともに、一緒に泣いていました。
良家に生まれた母でしたが、幼くして
両親を、大東亜戦争で夫を亡くしました。

戦後始めた事業もほどなく倒産。
手のひらを返したような世間の冷たさに晒され、
押しかける債権者に家財道具一切を持ち去られ
ました。

母の指から父の形見の真珠の指輪を強引に
もぎ取る姿がいまも目に焼き付いています。

母はこの時、一家心中の瀬戸際にまで追い
込まれていたのでしょう。しかし、それを
子供心に感じた時、ガタッという物音が
玄関から聞こえたかと思うと、ガラス戸に
一枚の紙切れが挟まっていました。

そこにはこう書かれていたのです。

「あなたには三つの太陽(子供)があるじゃ
ありませんか。今は雲の中に隠れていても、
必ず光り輝く時がくるでしょう。それまで
どうかくじけないでがんばって生きて下さい」

その手紙を読み聞かせながら、母は、はっと
気がついて、ごめんね、ごめんねと謝って
抱きしめてくれたのです。

おそらく私たちの窮状を見かねた近所の方
だったのでしょう。人間のちょっとした
優しさに、人の命を救うほどの力がある。

この時の強烈な印象、そして一家を養うために
身を粉にして働く母の姿が、私のおせっかいの
原点となったのです。

※本記事は2014年6月号から抜粋しました。

この続きは、WEBchichiにて公開しています。

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 今回も最後までお読みくださり、

    ありがとうございました。感謝!

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