私への感動だったのだとこの時ようやく気付いたのです = 2-1 = 第1,371号

月刊『致知』には毎号、心の琴線に触れる記事が
掲載されています。

本日ご紹介するのは、
新田次郎氏と、藤原てい氏の長女で、
数学者・藤原正彦氏の妹でもある
藤原咲子さんのエッセイ。

母親に対する長い葛藤と、
溢れるばかりの想いが胸を打ちます。

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 藤原咲子(高校教師・エッセイスト)
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「お母さん、私が嫌いなの?」
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私は昭和20年、終戦の1か月前に
満州国新京市(現在の中国長春市)で生まれました。

終戦後、父が捕虜収容所に送られたため、
母は数多くの死体が横たわる中、
1人で幼い2人の兄の手を引き、
生まれたばかりの私をリュックの中に隠して、
命からがら引き揚げ船に乗り込んだといいます。

当然私にその時の記憶があるわけではありませんが、
ほどけかけたリュックの隙間から見えた北極星と、
引き揚げの異様な空気はなぜか鮮明に覚えています。

壮絶な引き揚げで衰弱した母は、
帰国後病の床に臥しました。

死病と恐れられた肺結核でしたから、
子どもたちは近寄ることを許されません。

事情のわからない私は、
ただただ母の温かい愛情が欲しくて、
窓越しに母の様子を見ていました。

幼稚園から帰った私に「咲子、おいで」と言って、
木綿の布団をそっと開けてくれる母の姿を
どれだけ夢見たでしょうか。

病との闘いに奇跡的に打ち勝った母は、
やがてその壮絶な引き揚げ体験記
『流れる星は生きている』を書き上げ、
作家藤原ていとして一歩を踏み出しました。

だがそこにいたのは私が
ずっと待ち続けてきた
温かくて優しい母ではありませんでした。

幼子3人の命を失うことなく
引き揚げという苦境を乗り越え、
ただ成功者として社会から
讃えられる母だったのです。

私は兄たちよりずっと厳しく育てられました。

少しでも甘えようものなら

「あんなに苦労して連れて帰ったのに、
いつまでもわがまま言うんじゃないの」

という言葉が返ってきました。

お母さん、
どうしてそんなに怒るの、
私が嫌いなの?

引き揚げ時の栄養失調で多少の言葉の遅れがあり、
友達とうまく話すこともできず、
学力でも兄たちに追いつけない私は、
いつの間にかすべてに自信を失っていました。

と同時に、私が生まれたことが
母には不満だったのではないかと、
様々な憶測が頭の中をよぎるようになりました。

藤原咲子(ふじわら・さきこ)
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1945年、父・新田次郎(本名・藤原寛人)と、
母・藤原ていの長女として、
満州国新京市(中国長春市)に生まれる。
立教大学文学部を卒業後、東京教育大学で
比較文学を、北京師範大学で中国語を学び、
高校で中国語を教える。
数学者・エッセイストの藤原正彦は次兄。

 『致知』2007年2月号

         連載「致知随想」

 今回も最後までお読みくださり、

       ありがとうございました。感謝!

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