茶室という密室は機密情報の交換の場として適している 第 1,902 号

 足軽から身を起こした秀吉は父祖伝来の領地も

なければ親族も少く、将から兵にいたるまで

その人材に乏しくていつも寄合所帯だった。

 秀長は人柄もよく、様々な実務に抜群の才

があったばかりではなく、いくさでも負け

を知らなかった。兄の大胆さを補うに弟

の手堅さ、秀吉の成功はこの人なく

してはありえなかった。

 豊臣秀吉の弟である秀長の戦勝は凄まじい。

弱兵を率いるときはよく守って崩れず、大

軍を持つときは、けれん味のない戦術で

敵に乗ずる隙を与えなかった。何より

もこの人が得意としたのは、兵站

と諸将の調整だ。

 豊臣秀長は、つねに味方の力に合った戦を

した。そんな戦ができるのは、功名を狙う

ことも名声も求めることもなく、補佐役

に徹した人間の特権なのかも知れない。

 きらびやかな兄の動きの陰で、秀長は日々

古参組と新しい文治派の調整に当たった。

 秀長の領国である、紀伊、和泉、河内、大和

は、いずれも治め易い所ではなかった。その

難しい土地を秀長は一度の内乱もなく治め

た。この人の行った政治を語るいくつか

の史料を見ると、時には厳しい刑罰も

行っているが、一方では実に丹念

な調整にも気遣っている。

 秀長の築いた大和郡山城は、その巨封に比べて

質素であり、その生活は、あまりにも豪華であ

った兄のそれとは対照的に地味だった。この

人は、自らの功績を伝える記録も残そうと

しなかったし、おもしろおかしい

エピソードも残さなかった。

 織田家家臣時代から、小一郎秀長は、少しでも

重要と思う問題は兄にそのまま上げる。しかし、

細かな事は自分の判断を付けて兄に伝えて、

決裁のみを仰ぐ。そうでもしないと、

兄が多忙になり過ぎるからだ。

 秀長は長浜築城や越前攻めの兵糧方で教えら

れた新技術を全面的に応用してみた。そ

れは仕訳帳付、つまり簿記だ。

 秀長は用心深く考えた。調整役の秀長が武か文か

いずれか一方に片寄っていると思われてうまく

いかない。調整役たるものは双方を等しく

理解できる経験と知識がなければなら

ない。このために彼は、武勇でも

文治でも一応の実績を作っておきたかった。

 兄は悪戯っぽい笑顔になった。秀長が、この

正月からはじまった安土築城の監督や新付の

新兵の鍛錬で多忙な合間に、用兵の術や

習字・算術・帳付の法などを熱心に習

い出したのを、兄は半ば喜び、半ば訝った。

 兄、秀吉の精神構造は、、適度の粗雑さと

賭博師的大胆さを備えている。

 この当時の茶人はみな情報屋だ。茶室という

密室は機密情報の交換の場として適している。

堺の有力商人であり、信長の茶頭をも勤

める津田宗及は、その中の大物だ。

 堺屋太一『豊臣秀長、ある補佐役の

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  今回も最後までお読みくださり、

      ありがとうございました。感謝!

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