麻生太賀吉は吉田茂のことを実の父親のように慕った 第 464号

 1866年、吉田茂の養父、吉田健三は留学を

目的に密航を企てる。

 英国に2年滞在し、その間に養った語学力が

彼の人生を決定づけた。

 ちょうど帰国した年に明治維新があり、健三

は自分の時代が来たことを実感する。

 吉田健三が亡くなったとき、吉田茂は

11歳であった。

 健三は、現在の貨幣価値にして25億円と

いう莫大な遺産を残してくれた。

 あろうことか、彼はこの遺産を戦前に

すべて使い切ってしまった。

 1964年、春に大勲位菊花大綬章を授与された折、

墓前で、「相続した財産はすべて使い切りまし

たが、こうして大勲位をいただきましたの

でご勘弁ください」と報告したと

いうのは有名な話だ。

 養母の士子のしつけは厳しく、寒さに負けない

よう足袋もはくことも許さなかった。

 茂は、感受性が強く、まっすぐな性格の

子供に成長していった。

 強度のはにかみ屋で、後年まで、朝起きても

身だしなみをきちんと整えてからでない

と人には会わなかった。

 また義理がたく、何か貰いものをしたら

必ず礼状を出した。

  それは多忙をきわめた首相時代でも

同様であった。

 外務省に採用されたことを喜んだ実父の

竹内綱は、お祝いとして彼に名刀「関

兼光」を贈っている。

 「官員になると賄賂とかいろいろ誘惑が多い、

そういう誘惑をこの刀で断ち切れ」という

父の遺訓を、吉田茂はずっと守り通した。

 「当意即妙のジョークの一つや二つを言え

ないようでは紳士とはいえん」よく

吉田はそう語っていた。

 茂は極力家族と一緒に食事を

取るようにつとめた。

 食事の席でよく子供たちに、「お前はどう

考えるか?」と意見や感想を聞いた。

 茂の娘、和子の夫である麻生太賀吉は、「もう

一度生まれ変わっても和子と結婚する」と公言

していたくらい仲の良い夫婦だった。

 麻生財閥の経済的バックアップなくして吉田

茂の政治活動はなかっただろう。

 「カネは銀行にとりにいけばいつでも引き出

せるところをみると、麻生が入れておいてく

れるのだろう」などと吉田はのんきな

ことを言っていた。

 父親を早くに亡くした太賀吉は、茂の

ことを実の父親のように慕った。

 太賀吉が昭和24年の総選挙に立候補して衆議院

議員となったのも、自らの栄達でなく、岳父の

茂をそばから支えようと思ってのことだった。

 何の役職にもつかず、ひたすら影法師の

ように仕え、吉田の首相辞任とともに

議員をやめている。

 茂は意外にも目立つことを好まなかった。

 葬儀に花を贈る際にも無名で贈った。

 葬儀の場にでかでかと自分の名前が書かれた

生花が飾られるなどというのは、考えた

だけでも身震いがしたからだ。

  ワンマン宰相と呼ばれ、占領からの早期独立を

果たした吉田茂。

 戦前、外交官だった彼は、ヒトラー、ムッソ

リーニと手を結ぶ三国軍事同盟に強く反対。

 最後まで開戦を回避しようと努力する。

 さらに戦争中も早期終戦に奔走するが、反

東条派と睨まれた彼は、スパイを送り込

まれ、ついに憲兵に逮捕されてしまう。

 北康利

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 今回も最後までお読みくださり、ありがとう

              ございました。感謝!

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