欲望という名の煩悩を常に刈り取る (その1) 第 90 号

    心を用いること鏡の如し

 『荘子』(そうし)には同じように「明鏡止水」

(めいきょうしすい)という表現がありますが、

ともに心が澄みきった鏡や静かな水のよう

に、私達の心が一点の曇りもない状態に

なるようにすすめています。

 禅門では悟りとはこうした境地であるといって

重視し、中国の禅の語録『六祖壇経』』(ろくそ

だんきょう)には神秀禅師(じんしゅうぜんじ)

(706年寂)の作という、次の

ような一節があります。

   身は是れ菩提樹   心は明鏡台の如し

   時々に勤めて払拭せよ 

   塵埃をして惹からしむこと莫れ

 禅の師匠・弘忍和尚(こうにんおしょう)(675

年寂)は、弟子の誰かに自分の禅法を継がせ

たいと思い、ある時、自分の悟った心境

を偈(げ)(禅の心をうたった詩)にして

提出するよう指示し、その中で禅の

神髄を突いたものに印可(いんか

)を与えようと語りました。

 当時、弘忍には七百人の弟子がいたといわれ

ますが、多くの弟子は尻込みをして、偈を

つくるものがありません。

 そのとき、高弟の一人である神秀が差し

出したのが上記の偈です。

 すなわち、身体は、ちょうど悟りを宿す樹で

あり、心はもともと清浄で美しい鏡の

ようなものである。

 ゆえに、それを常に汚さぬよう払ったり

拭いたりして、煩悩の塵や埃をつけては

ならない、という意味で、これを読ん

だ師匠の弘忍は、印可を与えたといいます。

 私達はとかく自分の事だけしか考えず、私利

私欲に走って利害打算の目でしか周囲を見な

いから、自分勝手に描いた虚像に自分自身

が振り回され、そこでいらぬことを思い

煩い、結果が思わしくないのです。

 物事はあくまで、独断と偏見を避け、虚心

坦懐にその全体像を透き通った目で眺めな

ければ、その虚像の奴隷になってしまいます。

 しかし、私達が人間である以上、たえず

自己中心の欲望という名の誘惑の魔手が

襲い掛かり、かよわい意志の持ち主に

とっては打ち負かされそうになりが

ちですが、そうしたときこそ、自

分の心を澄みきった鏡のように

しておかねばならないでしょう。

  詩人の坂村真民(1909-2006)さんは

 こうした境地を、

   「いつも瞳は澄んでいよう。濁って

  しまっては駄目」と、うたっています。

 仏教ではこうした欲望という名の誘惑を「煩悩」

といい、それは、ちょうど雑草のように、刈る

そばからまた生えてきます。

 どうせ生えるのだからと言って放置していると、

実もふたもなくなってしまうので、たえず

刈り取っていなければなりません。

              ( 長くなりましたので次号に続きます )

  今回も最後までお読みくださり、

        ありがとうございました。 感謝!

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