欲望という名の煩悩を常に刈り取る (その2) 第 91 号

釈尊(しゃくそん)の在世当時、その弟子にチュ-ラバンタカという

男がおりました。彼は物覚えが悪く、いつも他の弟子たちから、

さげすまれていました。あるとき彼は釈尊に、

「どうしたならば自分のような愚か者が悟りを得ることが出来ましょうか」

と問いかけたところ、師は、一本の箒をあたえて、

「これで毎日周囲の塵を払い垢を除きなさい」と教え、それからは字句通り

忠実に周囲をきれいに掃除することに専念し、そこから師の教えである

「人の世の迷いは塵や垢なり。智慧はこれ心の箒なり」の意味するところを

身をもって知り、他の弟子たちよりも、早く悟ることが出来たといいます。

このことから実践を重視する仏教寺院の生活は「一に掃除、

二勤行(ごんぎょう)、三学問」といって、勉強をして下手な知識をつめ込む

事よりも、まず周囲をきれいに掃除して整理整頓すること、そしてお経を

実際に読むことを優先し、それがすんでから勉強せよ、と進めています。

さいわいなことに、日本人は清潔好きといわれ、大人になると自分の身辺だけは

きれいにしますが、まだまだ公共物を粗末にしたり、自分の心をきれいにする

ことを怠っているようです。

       「足を洗える水は不浄にして飲むべからず」

『法句譬喩経』(ほっくひゆきょう)にあるこの句は、愚かな人間の行いについて

当たり前のことを淡々と語っているように見えますが、実は釈尊自身が苦い経験

に基づいて弟子たちに諭したものです。

  釈尊は出家以前にラ-フラという一子をもうけましたが、彼が十二、三歳の

  時に父の弟子となり、その許で修行していました。

  ところがラ-フラにはときおり嘘をつく悪い癖があり、釈尊のところへ

  訪れて来た人が、「師はどこにおられるか」と尋ねた時、

  「ギジャク-タの丘でしょう」と平気で嘘をつきました。

  釈尊はそのとき竹林精舎(ちくりんしょうじゃ)にいたのです。このことを

  知った訪問客は烈火の如く怒りました。

  それを伝え聞いた釈尊は、我が子をいさめるべく彼の修行場へ

  立ち寄ったのです。

  父から叱られることを覚悟していたラ-フラは、神妙に父を迎え、

  桶(おけ)の水でその足を洗って差し上げたところ、すかさず釈尊は、

  「ラ-フラよ、お前は私の足を洗った水を飲み食いに使うだろうか」

  と尋ねました。「汚れているから役に立ちません」と答えてラ-フラ

  は水を捨てました。

  その桶を持った釈尊は、

  「ラ-フラよ、お前はこの水の器に飲物や食物を盛るだろうか」と

  問いかけました。「入れません」とラ-フラが答えるやいなや、釈尊は

  その桶を下に落としたので壊れてしまいました。

  「ラ-フラよ、お前はこの桶が壊れてどう思うか」と、なおも釈尊が

  問いかけると、ラ-フラは、

  「どうせ足を洗った容器で、大したものではないから気にしません」と、

  いとも気安く答えました。それを聞いた釈尊は、

  「そうであろう。誰も汚れた器など気にかけまい。人間も同様に、

  嘘を平気で突くような穢れた心の持ち主は、ちょうどこの器の

  ように人々から愛されず、見捨てられてしまうのだ」と戒めたのです。

  ラ-フラは非を認めて以後は決して嘘をつかないことを師の父に誓ったと

  いいます。

昔の道歌(どうか)に、「掃けば散り 払えばまたも散り積もる 

庭の落ち葉も人の心も」とあるように、環境も人心もこれで完全にきれいに

なった、という状態は永遠に訪れる事はありません。

私達は毎日、自分の周囲も内心も、鏡のように澄みきった状態が保てるよう、

払い清めてゆかないければならないのです。

たとえ、いくらそれがつらいことであっても。

                     ( 仏教伝道協会 みちしるべより )

    今回も最後までお読みくださり、ありがとうございました。 感謝!

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