その言葉は本心 ? 本音なの? (その1) 第 100 号

 多言(たげん)は一黙(いちもく)に如(し)かず

 おしゃべりは、私達の気持ちを相手に伝える

便利な手段ですが、ときとしてそれは「意

あまって言葉足らず」という事になる

ことがあります。

 いろいろ、言いたい事を手を変え品を変え、

表現しようとしても適当な言葉が見出せず、

ゼスチュアたっぷりに言外の言で、相手

を納得させようと努力した挙句「目は

口ほどにものを言い」で、目くばせ

などの表情で以心伝心させる、と

いったたぐいのものです。

 こうした腹芸は、特に日本人の間では得意の

技で、「書かれた言葉」よりも「語られる

言葉」の内容の正確さや美しさを、

とかく軽視する傾向があるようです。

 これはおそらく、今までの教育が文字を目で

読むことを中心にして行ってきたので「書

かれた言葉」を重視し、会話は証拠が

残らないので、批判の対象から外

され、少しくらい無責任な言葉

をはいても許され、「語られ

た言葉」尻をつかまえて、

とやかく批判すると狭量な人だと

さげすまれ言挙(ことあ)げしないことを

良しとしたからでしょう。

 その点西洋人の言葉は、私たちほど「書

かれた言葉」と「語られる言葉」の差は

少なく、「語られた言葉」そのままが

「書かれた言葉」といってよく、

その内容が支離滅裂という事はありません。

 これは多分にその言語構造に原因を求める

ことが出来、それにもまして「言葉」その

ものを自分のものにし、いかに自分らし

い言葉で語るかに腐心している証左(しょうさ)

といえましょう。

 わが国では説得力のある話術にたけた人と

いえば、一部の専門家に限られ、多くの人

はそうした話術にたける事よりも、誠意

ある朴訥(ぼくとつ)とした語り手に

なることを好むようです。 (とはいえ最近

この傾向も、かなり変化しているかな?)

 話術という語感が、何か作為的な技術を

連想するところから、言葉自信を美しく

表現し、きちんと語ることを他人行儀

なものとして意識的に避け、むしろ、

ぶっきらぼうに語るほうが信用が

おけるという、風潮になったのでしょう。

 このように「言葉」自体に外向きのタテマエ

の「言葉」と内輪同士で語るホンネの「言葉」

という両極がある限り、ホンネで書いたり

語る自分の言葉を、磨き、発展

させる必要はなさそうです。

 「このままでいいのだ。どうせ言葉なんて自分

の意志を相手に伝える手段の一部であり、要は

相手が受け取ってくれればいいのだから、

言葉の内容が支離滅裂であろうが、

表現が稚拙(ちせつ)であろうが、

別にかまわないじゃないか」

という意見にも一理はあります。

 しかし、それは内輪同士では通用しても、

種々雑多な人の同居する国際社会の中に

あって日本が文化国家を標榜し、日本

人である私達が日本語の持つ美しさ

や独自性を誇り得るとすれば、私

たちが語る言葉自体を粗末に

してよいわけがありません。

 はたして私達は自分の言葉を語るとき、

その発音や調子に気をつけて、語る

相手に理解されるように、美しく

しかも簡潔明瞭に、そして的確

に話そうとしているでしょうか。

 それは、なにも改まった公式の席上で

形式的に語りかけることではなく、

日常会話の中で、自分らしい

言葉で相手に語りかける

ことにほかなりません。

       ( 長くなりましたので次号に続きます )

 今回も最後までお読みくださり、

      ありがとうございました。 感謝!

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