宇宙からの預かりもの (3-1) 第 140 号

  本来無一物(ほんらいむいちもつ)

 上の句を記したといわれる慧能禅師(えのうぜんじ)

(713年寂)は、このサイトの 第 90 号「2016年3月 6」

で紹介した神秀禅師(じんしゅうぜんじ)(706年寂)と

同期の人です。

 中国禅の五祖である弘忍和尚(こうにんおしょう)

(675年寂)があるとき、弟子たちに向かって、「私も歳だ。

後継ぎを決めたいので各々自分の詩偈(しげ)をつくって

提出しなさい。君たちのなかで法を得た者を第六代の祖師

としよう」といい、

弟子のなかでも先輩格の神秀(じんしゅう)がつくって呈上

したものが 第 90 号で紹介した「身は是れ菩提樹、心は

明鏡台の如(ごと)し云々(うんぬん)」という句です。

 この時慧能(えのう)は、米つき小屋で働きながら修行中

の在家の修行者でしたが、神秀の句を聞いて「これは真実

をうたっているが、まだ十分ではない」と批評し、自分の

作ったものを差し出したのが次の句です。

  菩提本(もと)樹(き)無し

  明鏡も亦(また)台に非ず

  本来無一物(ほんらいむいちもつ)

  何(いず)れの処(ところ)にか塵埃を惹(ひ)かん

すなわち、世の中には菩提という樹も、明鏡という心も

本来無く、もともと無一物であるから、塵埃がつきようが

なく、したがって払拭(ふっしょく)する必要もない、と

いう意味です。

この句を知った弘忍は「これこそ禅の神髄をついたものだ」

として、慧能に第六祖の印可(いんか)を与えたといいます。

 神秀の禅風は、後に中国北方に伝わったので、北宗禅

(ほくしゅうぜん)といい、日々の修行の積み重ねを強調

して、順序を経て悟りにいたる漸悟(ぜんご)を目指しまし

たが、慧能の禅風は南方に伝わったので、南宗禅

(なんしゅうぜん)といい、修行の上に、さらに絶対的な

飛躍の必要があることを強調する、頓悟(とんご)をめざ

しました。

ともに悟りを得ることには変わりはなく、その過程で

煩悩の迷いを漸進的(ぜんしんてき)に払拭していくか、

そうした煩悩と悟りの相対的な分別を超越して、絶対的

な境地に直参(じきさん)するかの違いです。

    ( 長くなりましたので 第150号「2016年4月 8」

                    に続きます )

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