宇宙からの預かりもの (3-3) 第 151 号

 もし、自分の意志でそうしたものを自由に

コントロ-ル出来るのであれば、医師や、

み仏の力を借りなくてもよいでしょう。

 こうしてみると、世の中全てのものは、人間

であれ、その他のものであれ、どれ一つと

して、”わがもの”というものはなく、

みな、宇宙自然の命の働きの一部

分であることが分かります。

 私達はそれを預かっているに過ぎないのです。

 にもかかわらず、人間だけが「これは自分

の所有物だ」と自己主張し、”わがもの” を

“他のもの” と区別してそれぞれが領有権

争いをしています。

 釈尊はそれを人間の愚かしい我執(がしゅう

)のなせる業(わざ)だと喝破(かっぱ)し、

それにとらわれることのない道を

示されたのです。

 釈尊は次のように語っておられます。

  「友たちよ、私が “我あり” というのは、この

  肉体が我であるというのではない。

   またこの感覚や意識を指して言うのでもない。

   あるいはそれを離れてなお別に我があると

  いうのでもない―。

   友たちよ、それは例えば花の香りのごとき

  ものである。

   もし人ありて、弁(はなびら)に香りがある

  と言ったら、正しいだろうか。

   茎に香があるといったら正しいだろうか。

   あるいは蕋(しべ)に香りがあるといっても

  正しくないであろう。

   そこはやはり花に香りがあるといわねばならない。

   それと同じく、肉体や感覚や意識が我であると

  いうのは正しくない。

   その統一体において “我あり” というのである」

 

   ここで釈尊がいわんとしておられることは “我”

  というものには実体がなく、個体を構成している

  ものの総称にすぎないということなのです。

 すなわち、人間存在というものはすべて無我であり、

無常であり、空であるということになります。

 こうした観点から、自分の体も所持品も肩書や地位

や名前も、縁あって仮に自分のところに集合した

預かりものであって、それらを自分の所有物

だと自己主張することは、とんでもなく

僭越(せんえつ)になってくるのです。

        ( 仏教伝道協会 みちしるべより )

 今回も最後までお読みくださり、

       ありがとうございました。 感謝!

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