周囲が自分を信じてくれる生き方をしていますか (2-1) 第 190 号

    信(しん)は是(これ)仏子(ぶっし)なり

 ふつう、私達は「信」という言葉を、信心、信仰、信用、

信頼などと用いて、広い意味を持っていますが、み仏や

人々と良い相互関係が結ばれたときに、成り立つものと

考えられます。

 ここに引用した『宝積経(ほうしゃくきょう)』は、大乗仏教

の経典で、菩薩(ぼさつ)という悟り(菩提ぼだい)を求める人々

のために説かれ、「信」の大切さが強調されています。そして、

この章の句にあるように、信ずる人が仏の子にふさわしい、と

言っています。

 では、いったいどういう事が信ずることなのか、というと、

この経典で釈尊は次のように語っています。

   カ-シャパよ、次のような四つのあり方があるとき、菩薩は

  優れた智慧(ちえ)を体得する。すなわち、

(一) 教えと、教えを説く師に対して、尊敬の念のあること。

(二) 心に物欲がなく、利得とか礼拝(らいはい)供養とか、名声とか

  を願わず、師から聞いたままに、また悟り得たままに、教えを

  他の人々に懇切に説くこと。

(三) 教えを多く聞くことによってこそ智慧が生まれると知って、

  頭や着物に火がついたように急いで教えを聞こうと探し求め、

  聞いたままにもろもろの教えをたもつこと。

(四) 菩薩としての修業を第一の眼目として、概念や言葉だけに

  憂き身をやつさないこと。

また、釈尊はこの経典の別の個所で、次のように語っています。

   カ-シャパよ、次のような四つのあり方があるとき、彼の菩提を

  求める心は混迷する。すなわち、

(一) 教えや教えを説く師に従わず、

(二) 他の人々に後悔を生ぜしめ、

(三) 菩提に向けて志を起こした人々に、誹謗(ひぼう)と悪評の言葉

  を語り、

(四) 他の人に近接するのに虚偽(いつわり)と邪曲(よこしま)と詐術

  (だまし)とをもってし、まことの志をもってしない。

 このように、教えをまず聞き、それを実行することによって信が成り

立ち、悟りを得ることができる、というのです。

 ここでいう教えとは、仏の教えを指しますが、その仏と私達が、良い

関係を結び、それと一体になった時、仏を信ずる人といえましょう。

 近ごろは、人間同士の信用や信頼の大切さを説き、実行している人は

いても、仏を信仰したり信心する人が少ないように見受けます。

 その原因はいろいろ挙げられましょうが、人知や医学が発達し、経済的

にも繁栄して超越的存在としての、仏が信じられなくなり、貧・病・争と

いうこの世の救いを、仏に求めるよりも、人間同士で解決できるという、

確信を持つようになったからではないでしょうか。

 しかし、そこですべての問題が解決したわけではなく、依然として不安感

や不幸感にさいなまれ、精神的苦悩を訴える人が多く、安心立命

(あんじんりつめい)には程遠いようです。

                  ( 長くなりましたので 第 191 号 に続きます )

九 州 方 向 に 祈 り を こ め て !!

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