今の出会いを大切にしなければならない (2-1) 第 200 号

     会者定離(えしゃじょうり)

 この句は『平家物語』に、「生者必滅(しょうじゃひつめつ)、

会者定離は浮世の習いにて候(そうろう)」と引用されて以来、

一般の人々にも「会うは別れの始め」と同様に、広く用いら

れていることはご承知の通りです。

 今まで、顔を合わせ、仲良くしてきた人と別れなければな

らなくなったり、相手が死んでしまったときには、別離の

悲しさがひとしおで、とくに最愛の子を亡くした親にとって、

別れの辛さは身を切られる思いでしょう。

 そんな時、いくらお悔(く)やみに駆けつけ、周囲のものが

慰めや励ましの言葉をかけてあげても、その悲しみが癒(い)

えるものではありません。

 わが国の輩出(はいしゅつ)した偉大な哲学者である、

西田幾多郎(きたろう)先生(1870-1945)がまだ若いころ、

十四歳になったお嬢さんを亡くされ、その気持ちを次の

ように綴っています。

  亡き我が児が可愛いというのは何の理由もない。

  ただわけもなく可愛いのである。ここまで育てて惜し

  かろうという人がいるが、親にとって損得ではない。

  女の子でよかったですね、という人がいるが、男の子

  なら惜しくて、女の子なら惜しくないという比較では

  ない。

  子を喪(うしな)った人はあなただけではない。

  悲しんでいる人は大勢いるのだから、あきらめなさい

  よ、忘れなさいよ、といってくれる人がいるが、

  これは親にとって堪えがたいことである。

  せめて自分だけは一生思い出してやりたい、というのが

  親の心である。この悲しみは苦痛といえば苦痛だが、

  しかし親はこの苦痛のなくなるのを望まない。

 いくら、この世が無常ではかないものであることを、理屈

では知っていても、いざ自分の最愛の人を失ったときには、

ただ無性に悲しくて、その別離の悲哀(ひあい)を一人で味わい、

大切にしたいというのが人間の情というものでしょう。

 私たちは、普段多くの人と会っては別れ、別れてはまた会う

という毎日を繰り返し、会うことも別れることもマンネリ化

して、特別の感慨(かんがい)を持たずに過ごしています。

 そういう出会いからは、おそらく何も学び取るものはない

でしょう。しかし、身内の者だけでなく、私たちは人との

出会いによって友情を温め、自分の人生体験を深めてゆく

ことが出来ると思うのです。

ところが、そういう人との出会いも、いつでも出来ると

タカをくくって、大切にしていないのが実情ではないで

しょうか。

 仏教ではよく「一期一会(いちごいちえ)」ということを

申します。「一期」とは私達の一生涯のことで、「一会」

とはただ一回の出会いをいい、一生涯でたった一度の、

めぐり合いをしていることをさしています。

             ( 長くなりましたので 第 201 号 に続きます )

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