今の出会いを大切にしなければならない (2-2) 第 201 号

 ふつう、私たちは人や出来事に何度も出会っていますが、

よくよく考えてみると、その時の出会いはその時の一度

だけで、二度と同じ機会が戻ってくることはないのですから、

何度出会いを重ねてもやはり毎回「一期一会」です。

 そして、相手と再会を約束しても、何かの事情で再び

会えるとは限りませんから、もう二度と会えないかもしれ

ないと思って、今の出会いを大切にしなければならない

でしょう。

 生きている間に、最愛の人との別れならば、ある程度の

悲しさや辛さは我慢が出来ることでしょう。

 あるいは出会いの大切さを知って、相手との交わりも、

いいかげんなものでなく貴重なものとなることでしょう。

しかし、こと、その別れが他人に対してでなく、自分自身が

死に直面して、この世の最愛の人から別れなければならなく

なったときは深刻です。

 古人がよんでいるように「ついにゆく道とはかねて聞きし

かど 昨日今日とは思わざりけり」で、自分がこの世を

去ってゆく別離の辛さは、おそらく筆舌に尽くしがたい

ものがあるはずです。

 もし、自分がこの世をいやおうなく、立ち去らなければ

ならない時に(それは事実、いつかは訪れますが)、いったい、

自分はどうしたらよいかを考えると、万感胸に迫るものが

あります。

 私達はふだん、そうしたことを考えず、お互いが

「いつまでも、生きている気の顔ばかり」で安閑(あんかん)

とした毎日を送っていますが、いざ自分の死に直面し、最愛

の人と別れなければならないとしたら、居ても立っても

いられないことでしょう。

 しかし、たとえこの世で離ればなれになったとしても、

あの世ではまた一緒になれると、『阿弥陀経

(あみだきょう)』には次のように記されています。

  シャ-リプトラよ、極楽の世界のあることを聞いた

  人びとは、かならずそこに生まれかわりたいとの願い

  をおこしなさい。

  そうすればそこで再会できるからです。

 鎌倉時代の法然上人(ほうねんしょうにん)(浄土宗の開祖・

1212年寂)は、ときの幕府の念仏停止(ねんぶつちょうじ)の

弾圧にあって、多くの弟子たちと別れを告げて四国へ流罪

(るざい)の身となりましたが、その別離のおりに、

  「露の身は ここかしこにて消ゆるとも こころは同じ

  花のうてなそ」

 との一首の歌を弟子たちに残して、旅立ったといいます。

 上人の心境はおそらく上記の『阿弥陀経』の一節のように、

この世ではお互いが、別れなければならなくても、おなじ

極楽の世界に往生(おうじょう)するのだという信仰を持って

いれば、かならずあの世で再会できるという確信があった

からだと思います。

             ( 仏教伝道協会 みちしるべより )

   今回も最後までお読みくださり、

          ありがとうございました。 感謝!

スポンサードリンク

♥こちら噂の話題満載情報♥

ぜひ、いいね!を「ぽちっ」とお願いします

コメントをどうぞ

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

日本語が含まれない投稿は無視されますのでご注意ください。(スパム対策)