後の人達へ伝えられるものを残せる人 (2-1) 第 210 号

 常(つね)に慈心(じしん)を行(おこな)う

 慈心とは慈悲(じひ)の心のことで、『観無量

寿経(かんむりょうじゅきょう)』にある「仏

心とは大慈悲これなり」といわれるように

仏教の神髄であり、これを実行すること

が仏道を歩むことに他ならないというのです。

 人を愛することは「言うは易く 行うは

難し」で、だれしも口先で言うことは

簡単でも、実際に実行することは

至難の業です。

 しかし、世の中には心底から私達のこ

とを憂(うれ)い、思っている人が

いることも事実です。

 慈心や愛とは、人間同士の功利的な取引や、

相手をちやほや甘やかすことではなく、無

条件で自分のすべてを相手に与え、慈心

や愛そのもので満たすことで、それ

以外のなにものでもありません。

 釈尊の教えは各自に悟ることをすすめていま

すが、それは本人のためにはなっても、他人

のためにはならないのではないか、という

疑問が釈尊の在世時代から生まれていました。

  あるとき釈尊がサ-ヴァッティのアナ-タ

  ピンディカ(給孤独)(ぎっこどく)園に住

  んでいた時に、サンガ-ラヴァという

  一人のバラモンが訪れ、師に次の

  ような質問をしました。

  「私はバラモンであって、自ら供物を献じ、

  人々にも献じさせています。これは多

  くの人のためのならわしです。

  ところが師の弟子たちは剃髪して出家し、

  自分のために修行しています。

  これは他人のためにはならないの

  ではないでしょうか」

 これに対して釈尊は、

  「では、そなたにたずねたい。もし、まと

  もな人が修行して苦しみを脱し、自由な

  心の境地に至ったので、同じことを他

  にすすめ、他の人びとも悟ったとする。

  そうした人の数が、数百、数千、数万に

  及んだとしたならば、そなたはこれを

  いかに思うだろうか。

  それでも先達(せんだつ)となった一人の

  修行者は自分一人のために出家し、

  修業したといえるだろうか」

 と問い返した。バラモンは、「なるほど」と

  考え、「いいえ、そうではありません。

  師の弟子たちもやはり多くの人びと

  のために出家し、修業したことになります」

 と答えたといいます。

 中国の古典『大学』に「修身(しゅうしん)・

斉家(せいか)・治国(ちこく)・平天下(へい

てんか)」という言葉があります。

 天下を治めるには、まず自分の身を修め、

つぎに家庭を平和にし、つぎに国を治め、

次に天下を治める順序に従わなければ

ならない、という意味ですが、

 釈尊もおそらくこの発想と同じように、周囲

の人々のためになるには、まず自分が率先

して模範を示すことが、大切であること

を説いたに違いありません。

      ( 長くなりましたので 第 211 号 に続きます )

 今回も最後までお読みくださり、

      ありがとうございました。 感謝!

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