いつかは多くの花を咲かせ人々の心を潤すようになる (2-1) 第 220 号

  一燈(いっとう)を

     もって百千燈(ひゃくせんとう)を燃(とも)す

 灯火(とうか)は、暗闇の世界を照らすところから、人間の

無知を啓発する真理の光として、今まで多くの宗教で

尊(たっと)ばれています。

 仏教でも古くから、灯火を献じて仏を供養することは、

大きな功徳になるとして『賢愚経(けんぐきょう)』に

「貧者の一灯」というエピソ-ドが、紹介されています。

 それによりますと、

  釈尊の在世当時、インドの舎衛国(しゃえこく)に

  ナンダという貧しい女性がいたそうです。

  彼女は釈尊が近くの精舎におられるのを知って、

  他の富める人びとと同様に、何とかして供養したいと

  思いましたが、貧しくて灯明(とうみょう)をともす油

  を買うことが出来ませんでした。

  しかし、一所懸命働いて、やっとのことでお金を手に

  入れて油を買い、釈尊のところへ灯明を持参して、

  他の人びとと共に供養しました。

  一夜明けて、他の灯明はすべて油が尽きて消えていた

  のに、ナンダの灯明だけは、煌々(こうこう)と照り

  輝いていたということです。

 このことから「長者の万灯より貧者の一灯」という格言

が生まれ、この章の句のように、真心を込めて捧げる人が、

一灯を点ずることによって、他の多くの人の良心に灯火が

ともり、その影響は計り知れないものがある。

ということを教えてくれます。

 大乗仏教では、一灯を点じて周囲を照らす人を菩薩と

いい、平安時代の伝教大師(でんぎょうだいし)最澄

(さいちょう)(天台宗の開祖・822年寂)はその

『山家学生式(さんげがくしょうしき)』で、

  「国宝とはなにものぞ。宝とは道心なり。

  道心のある人、名ずけて国宝となす。

  径寸(けいすん)十枚国宝にあらず。

  一隅を照らす、これすなわち国宝なり」

 と述べています。国の宝とは金目のものではなく、

仏への悟りの道へ向かって自ら日々努力をし、周囲に

そのよき影響を与えている人をさす、というのです。

 この「一隅を照らす」という言葉は、おそらく次の

ような中国の故事からとったものと思われます。

 すなわち、あるとき斉の国王が魏(ぎ)の国王から、

「お前のところには宝物があるか」と尋ねられて、

魏には世に比類のない十個の宝物があると誇ったのに

対して、斎王は、「私の国には、一隅を照らす立派な

臣下がおり、これが宝物である」と答えたといいます。

 前記の「貧者の一灯」は、まさしく「一隅を照らす」

ものといってよいでしょう。

 私達の周囲には、これ見よがしに善人ぶって、偉そう

な口をきく人も多くいる中で、人知れず、だれに認めて

もらわなくても、ただコツコツと自分のこの世で

やるべき事を成し遂げて、一生を終わっている人を

見かけます。

 世の中で、ほんとうにえらい人というのは、その行い

をあまり世間に知られたくないようです。

 知られたくてやるような善行は、おそらくほんとうの

善行ではなく、偽善でしょう。

         ( 長くなりましたので 第 221 号 に続きます )

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