健全な精神は健全な肉体に宿る = 2-1 = 第 230 号

   過ぎたるはなお及ばざるが如し

 冒頭の句は、孔子(こうし)が二人の弟子である

子張(しちょう)と子夏(しか)とを比較して、

その生き方や考え方が、どちらも偏っているので、

中庸(ちゅうよう)を保つことの大切さを述べた

言葉です。

 何事を行うにも、他人の言うなりになり、世間の

慣習に従っていれば無難であり、気楽には違いない

でしょうが、それでは世間に押し流されて

平凡な一生涯を送るだけにすぎません。

 私たちがどんな勉強やスポ-ツをするにしても、

「もうこれ以上は出来ない。もしこれ以上続けたならば、

心身がおかしくなってしまう」という限界があります。

 たいていの人はそこまで行きつかずに、いいかげんな

ところで自分の努力を放棄し、それで何とも思わず、

のんきな顔をしているようです。

 それで事がすむうちはいいのですが、心ある人ならば

内心では後味が悪く、「最後までやり遂げればよかった」

と後悔する事でしょう。

 「落ち着く」という言葉がありますが、本当に安心

する境地にたどり着くためには、自分をもうこれ以上は

落ちることのない奈落(ならく)のドン底まで追い込んで、

 その地底に腰を据えるのでなければ、心底から

「落ち着いた」ということにはなりません。

そこまで私たちは自分を追い詰めたことがあるで

しょうか。

 どの辺で落ち着くかによって、自分の実力の程を知り、

自信もつき、それと同時に自分の実力以上のことが

出来る他人を尊敬し、自分自身は謙虚に振る舞えるよう

にもなるのではないでしょうか。

 釈尊は、御自分の苦行ぶりを次のように回想されて

おられます。

  「昔のいかなるシュラマナ(沙門)(しゃもん)や

  バラモン(祭司)(さいし)がどのような苦痛を受けた

  としても私の受けた苦痛は最高であってこれ以上の

  ものはない。

  また、未来のいかなるシュラマナやバラモンが、

  どのようなはげしい苦痛を受けるとしても、私の

  受けた苦痛は最高であって、これ以上のものは

  ない。

  しかし、このはげしい苦行によっても、私は通常

  の人や法を超越して最高の知恵に到達することが

  出来なかった。

  悟りに至る別の道があることに気付いた」

         『中部経典(ちゅうぶきょうてん)』

 試行錯誤(しこうさくご)しながら自分を最高、極限の

ところまで追い詰めた人は手探りであれこれ模索して

いるうちに、「ハハ-ン、これだな」という一種の悟り

にも似た境地に達し、コツを探り当てるものなのです。

 そうしたものは最初からわかるわけではなく、

試行錯誤を繰り返しているうちに、自然に体得する

ものでしょう。

       ( 長くなりましたので 第 231 号 に続きます )

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