日々笑いと精進を積み重ねることで前向きな発想が出来る = 2-1 = 第 250 号

     備(そな)えあれば患(うれ)いなし

 この句は自分がなすべきことをすれば、そこで備えが

あることになり、備えがあれば心配することはない、

という意味です。

 私達が、もしも真暗闇の中に投げ出されたとしたら

どうでしょうか。

 おそらく、手探りで一条の光を頼りに、どこか明るい

ところに出られる戸口でもないかと暗中模索するに

違いありません。

 一切の望みを絶たれて、一日たっても二日たっても、

ただ一人ぼっちで暗黒の世界にたたずんでいなければ

ならないとしたら、おそらく悲歎(ひたん)にくれ、

ついには発狂してしまうかもしれません。

 さいわいなことに、私達は見ることが出来、明るい

ところにいますから自分の所在もわかり、その周囲に

何があるかも確認でき、歩くことも座ることも、走る

ことも可能です。

 お腹がすけば、どこに食物があるかもわかるし、

どこの菓子屋へ行けばおいしいケ-キにありつける

かも、おおよそ予想がつくはずです。

 ところが、人生の迷路にはまり込んで、お先真っ暗

という精神的な悩みにさいなまれたとしたらどうで

しょう。

 その苦しみや不安を誰に訴える事も出来ず、解決策も

見出せず、一人ぼっちで深淵の谷底を見下ろす巌頭(がん

とう)に立たされて、ニッチもサッチもいかなくなった暁

には絶望し、自殺の誘惑にさえかられてしまうことで

しょう。

 そうしたときに、人生の最終目的が示され、そこで

救われることが確約されていれば、その途中にいかなる

難関が待ち受けていようとも、その光を頼りに、

安心して人生街道を歩んでゆくことが出来るのでは

ないでしょうか。

 釈尊は、宇宙の理法(りほう)である ”縁起の法„ に

目覚め、仏陀(覚者)(かくしゃ)となって、自分の悟った

教えにのっとり、そのたどったと同じ道を歩むならば

救われると弟子たちに確約したわけですが、

 その釈尊の後塵(こうじん)を拝するのにあまりにも

時代が隔(へだた)っています。

 そこで眼前に釈尊を見ることの出来ない後世の弟子

たちは、釈尊が遺言に、

 「私の教えを見る者が私を見る」と語ったように、

 宇宙の理法を悟った釈尊の人格的な働きである

智慧(ちえ)と慈悲(じひ)によって必ず救われると

信じ、時代や場所を超越して、いつでもその働きを

感じさせる、阿弥陀仏(如来(にょらい))の信仰を

持つようになりました。

 すなわち、歴史的人物である釈尊が体現した

智慧と慈悲の働きを、阿弥陀仏を通して私達も

感得できるというのです。

   ( 長くなりましたので 第 251 号 に続きます )

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